医学アラカルト No,1
2004/04/06
医聖の地<コス島>を訪ねて
本部長 河井正康
「生命は短く、学術は永い。好機は過ぎ去りやすく、経験は過ち多く、決断は困難である」
これはご存知、医聖ヒポクラテスの言葉である。それまでは哲学者の領分であった医学を哲学から切り離し、四体液説は別にしても、臨床経験や観察を基にした環境医学を重視したことから<西洋医学の父>とヒポクラテスは呼ばれている。医聖とても一個の人生では病全てのなぞを解き明かすわけにはいかず、コス学派が誕生したのである。私は1995年2月このコス島に行ってみた。これはその報告である。
アテネのエリニコン国際空港西ターミナルからオリンピック航空国内線でたったの50分。コーヒー1杯を慌てて飲み干すほどの早さで、ドデカニサ諸島の一つ、コス島に到着した。眩しいエーゲ海の雲間より眺めるコス島はまるでゾウリムシのようであった。
名所はコス島内に集中している。そのうちヒポクラテス関係は、ヒポクラテスのプラタナス、ヒポクラテス通り、コス博物館、アスクレピオスの遺跡が主なものだ。
ヒポクラテスのプラタナスは伝説によるとヒポクラテスが2400年程前に植えたもので、この大木の下で弟子たちに医学を教えたといわれている。医聖は紀元前460−377年、このプタタナスは樹齢500年というから計算はあわないものの、おそらくはこの先祖の木の下で教えたということなのであろう。幹が空洞化し、鉄骨で周囲を支えられているこの老木を見ているうちに、諸問題を内臓している現代医学のメルクマールを見せつけられているような気がしたのである。
老木の裏手からぐるりと右手に古代アゴラを眺める形で、ヒポクラテス通りがある。この通りにはアスクレピオスの杖(医師のシンボル)がそこかしこに描かれており、「ああ、ドクターの故郷にきたんだなあ」との感じを強くもたざるをえないのである。
5分ほど歩くとコス博物館。入ってすぐの正面床が有名なモザイクで、ヒポクラテスが舟で上陸するアスクレピオスを歓迎するというもの(紀元後2−3世紀)。近くのローマ人の家から発掘されている。
そしてもう一つ、ヒポクラテス像が博物館の目玉だ。やはり近くの音楽堂で発見され、発掘者がヒポクラテス像に違いないと信じたものである。何故か右腕が失われているが、どうしたのだろう? 私が想うにはきっとこの右手にはしっかりとアスクレピオスの杖が握られていたのではなかったろうか。実は館内にあるアスクレピオス像やその娘ヒュギエイア像は蛇の螺旋に巻く杖を常に携えている。神アスクレピオスと医師ヒポクラテス-この両者を結ぶ杖こそが秘密の鍵なのではないだろうか。右腕を奪ったのは、蛇を悪魔の使いとみなす宗教者なのか、はたまた宗教・哲学を医学から分離する熱狂的コス学派なのだろうか。
アスクレピオス神殿はエピダウロスの遺跡を初め、ギリシャ各地にある。トルコにすらあるとか。健康祈願は古今東西、人類普遍の願望ということなのだろう。コスのこの神殿は左にギリシャ本土、右にトルコが見える景観の良い高台にある。いわば癒しのエネルギースポットのような所にある。実際横になると、気持ちの良いことこの上ない。医療センターの原型が基本的に癒しの場にあることが体験して理解できたのである。
以上、ヒポクラテス関係の名所をざっと眺めてきた。学問的にはヒポクラテス研究は全集がリトレ版、ロエブ版を経て、トモス・プロトス編のカクトス版全17巻(1992)が登場するほど進んでいる。アテネでカクトス版をを購入することができたのも、このたびの収穫の一つであった。
そして私はこの旅で、ヒポクラテスがあれ程までにライバル視したクニドス派に対する敵意のイメージを、マンドラキ湾の高台に立ち、すぐそばに見えるトルコ(約5キロ)の方を睨み付け、戦略を巡らせるヒポクラテスを想像することで理解できたのである。
ヒポクラテス以降、医学は皮肉にもクニドス派の洗礼を受けて発展するに至った。したがってヒポクラテスのクニドス派批判はそのまま現代医学批判になる。もちろん、ヒポクラテスの時代とは異なり、自然環境は一変し、遺伝子までも操作できる今日の科学技術である。しかしそういう現代でもこの言葉はまだ通用するのではあるまいか。ヒポクラテスはよくこういったもの。
-自然(ピュシス)こそ疾病の医師である-
アルス・ロンガ・ヴィタ・ブレヴィスは私の文脈においても痛感する箴言と化してしまったのである。


ヒポクラテス像 モザイク(紀元後2-3世紀)

ヒポクラテスのプラタナス